というわけで、早速バイクを走らせて買いにいった。探してもやはり見つからなかったので、店員に聞いてみた。
「ありますよ」とのこと。通常版(18禁版)も全年齢版もあった。しかも、全年齢版は最後の1枚だった。
平積みされていた最後の1枚だったうえに、「Kanon」の文字も見にくかったので分からなかったのだった。
ついでに、市内の神社に行くことにした。資格取得のために努力するということを誓うためだった。
神社の駐車場も混んでいたが、バイクは自転車と一緒に駐輪できるのでありがたい。道路からはエンジン切って押すことになるが…。
お賽銭を投げて、お参りする。そのあとでおみくじ自販機(?)に100円入れてみたが、おみくじが出てこない。
「あやや〜」という顔していたら、すぐにそのそばにいた巫女さんが気がついてくれた。
巫女さん:「出てきませんか?」
私:「あれ?出てきませんね。」
巫女さんが自販機を開けて、おみくじを出してくれた。
巫女さん:「申し訳ありませんでした」(と深々とお辞儀をした)
私:「どんな機械も壊れるときはありますから(笑)」(そう、私の…の機械もよく壊れるんだし。これくらいならよくあることだ(爆))
おみくじを開いてみたら、小吉だった。
いや、おみくじは小吉だったが、私にとっては大吉かも(ぉぃ
家に帰ってきてからKanonをやってみた。まだあまり感情移入出来ていないが、いま言えることは雪の描写がすばらしいということ。この描写は雪国育ちの人でないと出来ないような気がする。
それから「うにゅ」や「うぐぅ〜」などのキャラ特有の言葉が見事にあっている感じがする。
明日になれば、もっと色々なことが書けるようになるだろう。
しかし「大きな収穫」って…(爆)
今回注文した本は「祭事の乙女達」(少年画報社、森見明日著)である。以前注文した本も同出版社、同作者のものだったが、この本が何週間経っても本屋に並ばなくて、結局通販を利用したという経緯があるので、今回は発売後にすぐ通販使うことにした。
この本はいわゆる「一般向き」ではない(^^;しかし、表紙がごく普通の巫女さんの絵なので、自分の部屋に普通に置いていても問題ない。しかし、これは一般向けだと思って買って開いてびっくり…(^^;というケースも出てくるかも知れない。
なんてよけいな心配をしてしまった。
そして、機械を使って作業することがとても心地よく感じるようになった。これは、本当の意味で自分の体や心に無理がかかっていないから。無理をすることは苦痛でもある。そして、この段階まで来れば、練習することで応用を効かすことも、もっと効率のよい作業も出来るようになる。
ここから本当の意味での「作業効率の追求」がはじめられるのだ。この段階まで来ていない人間にそのようなことを求めることが間違っている。この作業の学習の成功でこのことがはっきりと言えるようになった。
確かに2〜3時間は仕事になっていないかも知れない。しかしその分は無駄ではなく、「技能」という一生の宝を作り出すための時間なのだ。一生というスケールに比べれば、2〜3時間なんていう時間を問題にすることは意味がない。
それすら分からない人間が多いのはどうしてだろうか…。そんなのばっかりだと、「技能」が流失してしまう。
この重大性に早く気がつくべきだ。
会社で仕事していると、「体で覚える」ことが多くなる。しかしそれは私にとっては非常に難しく、
迷惑を掛けてしまったり文句を言われたりする。
そこで、私はこうする。体で覚えるのが無理なのなら、まず頭で考え、他人がやっていることを見て「何をやっているのだろうか?」「どうしてそうするのだろうか?」を考える。想像力を駆使しまくる。
分かるまで何時間も考えて、それから「体を動かす」段階に入る。
そうして頭で考えていただけでは分からなかったことも理解するようにする。
初めのうちは効率が悪いかも知れないが、これが私にとって最高の学習方法である。
だいたい、いきなり予備知識もなく「やってみせるから、一回で覚えろよ」と言うのは無理な話である。
去年はそれで非常に苦労した。(去年の日記を参照のこと)
今日もそうした努力を必要とする仕事だった。ある機械を使って作業する仕事だった。
慣れた人の仕事を何時間も「観察」し、「休んでいてもいいのに」と言われても、観察するためにひたすら歩き続ける。
そして、自分がその機械にのって実際に作業してみる。なかなかうまくいかない。しかしそれは実際に体を動かさないと分からない部分がうまくいっていないからである。午前中はめちゃくちゃだったので、すぐに代わってもらった。
午後になると、まだ時間がかかるもののだいぶうまくいくようになった。頭で覚えたことと体で覚えたことはリンクしはじめたのだ。それを実感することが出来た。
「明日はもっとうまくなる」そう思えたのだった。
今日、いくつかの資格に関する本を数冊買ってきた。
その中には、国家試験の中でも権威のあるものも含まれている。
これに合格することが出来れば、確実に人生が変わるであろう。
しかしながら、それだけに非常に難しい。こういった時にこそ、「昔取った杵柄(きねづか)」ではないが、学生時代の勉強が役に立つ。
一方、比較的簡単だと思う資格もある。資格を取ることで自分に自信を持つことが出来る。その自信を回復したい。そう思うから取る。この試験はそういった意味合いが強い。
この前消防署に行って願書をもらってきた、「危険物取扱者乙種4類」の問題集も買ってきた。これだって、化学の知識が役に立つ。化学をやらなくなってから5年経つが、「残りカス」はしっかり残っている。それに知識を再びつけて、合格できるレベルに引き上げればいい。
こうした資格を取るという目標を持つことで、生活に張りが出る。
昼間働いて、夜に勉強する。そういうことを何日も続けてもあまり体調を崩さないようになった。「変わることが出来る可能性」を否定して惰性で生きるよりも、いろいろ苦労があるものの、こっちの方がかえって楽しい。
これらの資格の中で、仕事で直接役に立つものはない。しかし、そんな小さな視点でしか物事を見れないほど、私は視野狭窄ではない。私は仕事という枠を越えて行動しているだけである。
それに引き替え…。と言いたくなることがたくさんある。
会社にいる、私とよく接する人はきっと言うだろう。「その資格が仕事に役に立つのか?役に立たないのなら、その時間で○○(具体的な仕事の内容)の作業効率を上げる方法でも考えろ。でなければ単なる時間の無駄だ」と。
それも「会社の人間」としてではなく「私と同じ会社にたまたま一緒にいる一個人」として言うだろう。
今までのやりとりを通じてそんなことはすぐに想像が出来る。
私の人間性を評価してくれた人の倍も生きていながら、こんな狭い視野しか持てないとは…。この人から「会社の仕事」という枠を外したらどうなるのだろうか?
私のことを評価してくれたこの人。こういう人が会社にたくさんいれば、どれだけ仕事が楽しくなるだろうか?どれだけ個人単位の能力が、ひいては会社全体のレベルがあがるのだろうか?
ネットをやっていてよかった。通常の人間関係で一生会うことが出来なかったであろうこうしたスケールのでかい人に出会えたのだから。
「学生時代に習った事なんて、社会人になってからはちっとも役に立たなかった」
という人がいる。まぁ、この辺は人それぞれだろう。
この前の送別会にもある人に言われた。
「漢字の読み書きと計算(四則演算)だけできればいいんだ。因数分解や微積なんて役に立たない」と考える人も多い。
確かに職種によっては微積なんていらない人も多い。しかし私は学生時代の勉強は役に立っていると思う。
学生時代のある教授はこうおっしゃっていた。
「試験が終われば、今までやってきたことはほとんど忘れて「残りカス」しか残らないだろう。しかしそれでいいんだ。その「残りカス」こそが重要なんだ」と。
まさにその通りだと思う。ちゃんとした学問にはならないかも知れないけれど、こうしたものは意外なところで役に立つ。応用が利いたり、汎用性があったりする。
様々な分野の「残りカス」が関連しあい、それが知識になる。私はそう思う。
この「残りカス」の価値を認めない(あるいは分からない)人が、「学生時代にならったことなんて役に立たない」と考えるのだろう。
これからいろんな資格を取得していこうと考えているが、きっとこの残りカスは役に立ってくれると思う。
今日は情報処理技術者試験の試験日。バイクで会場に行くことにした。会場とその付近には駐車出来ないので、そこから少し離れた駅の駐輪場に停めるためである。
で、肝心の試験だが、午前の問題はそれなりに解けたようだ。以前はすぐに分からなくなって、4択のうち1つを勘でマークしたケースが多かったが、そういったことが少なくなった。
午後はすぐに分からなくなって、退出可能時間になったらさっさと帰ってしまうことがあったが、今回はよく分からないにせよ、最後まで粘った。正答しなければ、結果は同じであるが、粘れるだけましになったのだろう。
…。さて、6ヶ月後に向けて勉強しよう(;ω;)
上司の送別会は会社の近くの店で行われた。
1ヶ月ぶりに見たその上司は、何年も若返ったように見えた。
上司自身からは、いわゆる「一身上の都合」が語られた。昔はよかったらしい。景気云々の話ではなく、別なことで。
ただ、あるターニングポイントを過ぎてからは大変だったらしい。それは私も少し経験しているので分かる。
こういう話は「話の行間」を読むことが大切である。
その上司に当初「教えた」という人は、入社時の様子を語ってくれた。私が生まれる直前の話である。
やはり、この上司が去ることによって失うものは大きい。
労働力だけではない。技術や人脈も結束力も失ってしまう。
涙ぐんでいる人もいた。この上司が普通に定年退職するとか、もっといい職を見つけて退職とか、病気のために退職というのなら、まだしょうがないのかもしれない。
しかし、理由が不憫すぎるだけによけいに悲しいのだろう。私もそういう意味で非常に悲しい。
その上司は、年輩者に対しては「不満点、問題点」を語ったが、私のような若い「これからの者」には「希望」のみを語った。
この先行く道が決して明るくないことは分かっている。「希望」を語られたとしても、
それを鵜呑みに出来るほど私は楽観主義者じゃない。しかし、気持ちを汲むことが出来ないほど無神経でもない。
この前の「技能士」の合格を報告して、私も「希望」を語った。
でも、私の気持ちなんて筒抜けなんだろうな…。
明日、3月に退職された私の元上司の送別会がある。
日曜日に試験で、土曜日にじっくり最終チェックしたいところであるが、酒が入れば多分1日中ダメだろう。
かといって、参加しないわけにはいかない。わずか1年とはいえ、この上司には非常にお世話になったからだ。
1年しかこの上司のことを見ていなかったが、非常に不遇だったように思う。
仕事が出来なくて、文句ばかり言われているのなら自業自得かも知れないが、決してそんなことではなかったと思う。
この上司が会社を去ることで、会社が失うものは非常に大きいだろう。
しかし、社会人になってから資格を取ろうとすると非常に難しい。
日中仕事をし、夜に勉強する。という生活になってしまう。「時間は作るものだ」という言葉があるが、
まさにその通りだと思う。
しかし1ヶ月もこれやっていると、正直かなり辛かったりする(汗)
その写真が出来たので取りに行った。
卒業式の際にお世話になった先生方や友人達と撮った写真だった。思っていたよりもすごくきれいに写っていた。