鍛冶屋闘争記


○ナンダ!このくそ爺ぃ!!

書斎に通して頂いてビックリ。
田舎者にとっては、始めて見る本・刻書作品・印材などが所狭しと置いてある。
目をキョロキョロさせていると、奥様がお茶を入れて下さり、ホッと一息ついた。

自信たっぷり(?)に印刀・ノミを並べて顔を上げたとたんに、「これじゃ、使い物にならねぇんじゃないのかい。」と一言。
「えっ、そうですか。触りもしないし、使ってもみないで分かるんですか!」と小生。
実は、当時の小生は、自己流で篆刻と刻書を自分で鍛えた印刀とノミで研究を重ねていたので、ある程度自信があったのである。
それなのに、触れもしないうちに、さっきの一言だ。
「ナンダ!このくそ爺ぃ!!」と、心中穏やかではなかった。

すると、「まぁ、折角だから佐藤さんの一番のおすすめの刀で、やって見せてあげよう。」
と、その場で、一寸角の青田石で刻し、半紙ほどの桂の板に刻しながら、諄々と
「この部分は、ここが悪い。ここは、こういう理由でいけない・・・・。」
と、一つ一つ説明して下さり、小生は意気消沈して、グゥの音も出なくなった。
どれほどの時間が過ぎたのか、帰りの電車の時刻になるので、お暇乞いをしている時に、
「佐藤さんは本当に若いんだから、一つ斯界のために本当に良い、創作意欲の湧いてくる刀を打ってくんなきゃね。参考にコレを重いけど持って帰って励んじゃくれないかい。」
と持たせて下さったのが、甲骨文の刻書作品『好日』である。(写真参照)

好日




○本当に良い刀とは?
あらゆる仕事においてそうであろうが、その仕事に応じて道具は自然と型が出来上がってくる。
それは、必然的に道具として使い良さが探究され、道具を製造する人と道具を使う人とのせめぎあいのなかで、良い道具が生まれ、後世に伝えてゆかれるからであろう。

書道界において、筆墨硯紙を中心とする文房具は、どの技法書にも書いてあるし研究されているが、篆刻の印刀と刻書(刻字・彫書など別称がある)のノミについては粗略に扱われているか、あるいは説明の無い本もある。
実は、石寿先生とあったこの日から、道具としての製作者と使用者の数年間に渡る闘いが開始されるのである。